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移住を機に下田の海人たちを撮り続け7年。フォトグラファーの感性を刺激する下田の魅力とは?<前半>フリーカメラマン津留崎徹花さん

伊豆にはアート、デザイン、映像、広告、文筆などに携わる、いわゆるクリエーターと呼ばれる人たちがたくさん活動しています。ここ下田にも、さまざまなメディアで活躍するクリエーターがいます。
フリーカメラマンとして活動する津留崎徹花さんも下田在住のクリエーターのひとり。もともとは東京出身。結婚後も東京に住まい、大手出版社マガジンハウスの社員カメラマンとして、雑誌『an・an』や『クロワッサン』などの写真を撮る仕事をしていました。その彼女がご主人と娘さんの家族で下田に移住してこられたのは2017年春のこと。東京で、だれもが知っているメジャーな雑誌で写真を撮る。
なんとも憧れのライフスタイルに思えるのですが、なぜ下田を暮らしの拠点として選ばれたのでしょうか。
徹花さんは現在、下田をベースに東京に通いながら雑誌の仕事をする一方で、ライフワークとして海とともに生きる下田の漁師さんや海女さんの写真を撮り続けています。そして、約6年撮りためてきた写真をもとに、2023年3月に東京で、そして10月には地元下田で写真展『海と、人と』を実現しました。
「厳しい自然と対峙し、生きる人びとの世界に魅了された」という徹花さん。下田移住が創作活動にどんな影響を及ぼしたか、海人(あま=海に潜って貝類や海藻をとる仕事をする人びとを指す言葉。男を「海士」、女を「海女」という)さんたちをテーマにするようになったきっかけ、今後の作品づくりについて……たっぷりうかがいました。



■「自分たちの手で暮らしをつくっていきたい」

——カメラマンとして東京で活躍されていた徹花さんが、地方移住を目指したのはなぜですか?

2017年の4月、夫と娘の3人で下田に移住しました。夫も私も出身は東京。結婚してからも都内の会社に勤めながら東京に住んでいました。ありがたいことにカメラマンとして充実した日々を送っていたのですが、娘を出産して、仕事と子育ての両立がなかなか難しくなってきて。あるとき立ち止まってしまった。当時の私は、時間に追われ、いつもイライラしていたような気がします。もうすぐ40歳。人生の折り返し地点に立ち、自分はこの先、家族とどんな暮らしがしたいのだろう——、そう考えたときに、もっと家族との時間を大切に、ていねいに暮らしと向き合っていきたい、そんな想いが自然と湧きあがってきました。

暮らしを考え直すきっかけとなったのは、もうひとつあります。2011年の東日本大震災です。あのとき多くの人が都市生活の脆弱さを感じたと思いますが、私たちも食べ物や電力などのライフラインのすべてを誰かに頼って生きていることに初めて気づき、愕然としました。そんなことも重なって、「自分たちの手で暮らしをつくっていきたい」「自分たちが食べるものを少しでもつくってみたいと、米づくりができる場所を探してみよう」と。

じつは、それ以前から地方暮らしへの憧れはあったんですよ。取材(コロカルの美味しいアルバムのリンク)で、いろんな地方に行く機会があって、そこで昔ながらの知恵を活かしながら素敵に暮らしている方々とたくさん出会いました。お金をかけなくても、自分で野菜をつくったりしながらゆたかに暮らしている。そんな生き方に魅了され、いつか自分もどこかの地方でそんな暮らしをしてみたいとイメージを膨らませていたんです。

私は当時、子育てをしながらフルタイムで働くことの難しさから会社を辞め、フリーランスのカメラマンとして活動を始めていました。移住を決め、夫も会社勤めを卒業することに。建築関係の仕事をしていた夫は当面は無職。収入減はもちろん不安でしたが、自分たちが納得する移住先を見つけることが先決。そこから立て直していこうと考えました。さまざまな地域をめぐり、紆余曲折を経て、最終的にたどり着いたのが下田でした。

「自分たちの暮らしを、自分たちでつくりたい」と地方への移住を決意した津留崎家。紆余曲折を経て、たどりついたのは下田でした。

■暮らす目線になって気づいた下田の魅力

——たしかに田舎であればあるほど、昔ながらの知恵が人びとの暮らしに根づいているような気がしますね。東京出身の津留崎家にとって、移住先はある意味、全国どこでも候補になったのではないかと思うのですが、なぜ下田を選ばれたのでしょう?

なぜ下田だったのか。いまでもよく聞かれるのですが、私としては「いろんなご縁がうまくつながった」という表現がいちばんしっくりくるんです。抽象的かもしれませんが、笑

もとをたどると、私と下田の縁は、他界した祖母がつくってくれたもの。祖母は下田に別荘を持っていて、私は夏休みになると毎年家族で遊びに来ていました。だから、海がとびきりにキレイなことや、おいしい海産物があることは知っていたのですが、どうしても観光地のイメージが強くて。自分たちが求める田舎暮らしはできないだろうと思い込んでいたんですね。

それが「下田、いいかも!?」に変わったのは、移住地を目的に訪れてみると、観光地としか認識していなかった下田に別の側面があると気づいたからです。紹介してもらった不動産屋さんのご婦人が世間話的に「自分で天草を採って、ところてんを煮たりするのよ」とおっしゃった。衝撃ですよ。え、このへんの人は自分で海藻をとったりするのかと。それから、地元の農産物直売所に新鮮な野菜がずらっと並んでいたのにも驚きましたね。こんなにたくさんの生産者がいるんだ!って。農業が盛んで、地元の人が海藻をとれてしまう下田……。海があって山も近くって……。ひょっとして、ここってめっちゃ田舎なんじゃない?? と途端にワクワクしはじめた。

新鮮な野菜や果物がびっしり並ぶ南伊豆の産直市場「直売所南伊豆湯の花」

私は感覚的な人間なので、そんなところでテンション上がっていたんですが、客観的な夫は冷静。東京から車で3時間半のアクセスや、人口2万人の小さなまちだけど、学校や行政機関、病院、スーパーなど暮らしに必要な要素がひととおり揃っていて、少し車を走らせれば、田んぼができる土地があることなどを調べてくれていました。さらに、いい条件の賃貸にめぐりあえたことも下田移住の決め手になりましたね。
娘がまだ5歳で、それまで仲良くしていた東京の友だちや従兄弟たちと離ればなれになるのは寂しいだろうと悩みましたが、下田だったら東京との行き来は可能だし、東京の仕事が多い私もなんとかなるだろうと。
最初は、とりあえず移住してみよう、うまくいかなかったら東京に戻ろうと、そんな気持ちもあったように思います。

——それから丸6年。2021年は古い一軒家を購入し、いよいよ地に足をつけて下田暮らしを送るようになった津留崎家。徹花さんは移住した当初から月に1、2度のペースで通っている東京の仕事に加えて、地元でも撮影の仕事が少しずつ増えているそうです。

移住したばかりのころは100%東京の仕事が収入源でしたが、暮らしているうちに子どもを通じて親しくなったママ友がデザイナーで仕事をまわしてくれたり、下田のホテルやゲストハウスなど宿泊施設の方から直接、レストランや室内の写真をとってほしいと頼まれたり。地元の飲食組合が運営するウェブサイト、老舗の干物店などからもご連絡いただいて。これまで出版社や編集者を介して仕事を請けていたのですが、下田では依頼主から直接オファーいただきます。個人の方からもSNSを通じてメッセージをいただくこともあって、それが新鮮でしたね。「こんな写真を撮ってほしい」というご希望に応じて、私のほうからじゃあこんなアレンジをしてはどうですかとか、こういうシチュエーションで撮ったらお客さまに響くかもしれませんなど、提案させていただくこともあって、一緒につくりあげていく感じが楽しいです。
いまも東京の仕事が収入のメインではありますが、地元の魅力を写真で紹介できることはカメラマン冥利につきますね。

下田や伊豆での仕事が増えて嬉しいと語る徹花さん。地元の小学校での撮影風景
こちらは下田東急ホテルからの依頼で撮影した一枚
地元でも観光客のみなさんにも人気の干物店「小木曽商店」のパンフレット


■食の原点に触れたい、撮影したい

——いい写真には、人の心を大きく揺さぶる力があります。何気ない風景でも、見知らぬ人の満面の笑顔でも、猫がのんびりあくびをしている瞬間でも、そこに生命の輝きを感じたり、撮影者のときめきや感動、畏怖が伝わってきたりすると、見る者の心をわしづかみにします。

私は徹花さんの写真のファンなのですが、彼女のSNSや下田での暮らしをご夫婦で綴るウェブ連載に掲載される下田の写真を目にすると、いつもグッと引き込まれます。美しい海の写真、緑あふれる田園風景、おいしい地場産の食べ物たち……。自然と、その自然がもたらす恵みに対する徹花さんの素直な感動や喜びがそのまま写真に切り取られているようで、その写真を見るこちらも「うわ〜〜、きれい」「おいしそう!」と反応するのだと思います。あくまでも私個人の感想なのですが。

早春、とれたてワカメをさっと湯がくと鮮やかな緑色に。その一瞬をとらえた一枚。湯気までおいしそう
仲良しの漁師さんからわけていただいたサザエをお刺身に。艶やかな色合いとプリッとした食感が写真から伝わってきます
掘ったばかりのサツマイモ。丸々と育って、大地の力強さを表現した一枚

風景や食べ物の写真ももちろん素敵。でも徹花さんの下田写真のなかでとりわけ私が好きなのは、その景色のなかに「人」が生きている写真です。家族だったり、地元の仲間たちだったり、子どもたちだったり、地元の恵みを私たちのもとへ届けてくれる生産者だったり。みな、津留崎家とよい関係を築いていて、徹花さんが大切に思い、尊敬する「人」たち。彼らがカメラを構える徹花さんに対して、心から信頼を寄せ、自然体でそこに立っているのが、一枚一枚から伝わってきます。カメラマンと被写体の間に、とてもやさしい空気が流れている。それを大きく包み込む、下田の自然がいつも背景にあって、徹花さんが意識されていることなのかどうかはわかりませんが、私は彼女の写真をみるたびに、「自然に人が生かされている」というのはこういうことをいうのではないかと気づかされます。

下田で生まれ育った人間にとって、美しい海がすぐそばにあること、自然のままの野山が広がっていることはある意味、当たり前。それがいかに貴重で、恵まれた環境に自分たちが暮らしていられているかについて、意識することはあまりありませんでした。それが、徹花さんの写真や言葉にふれる機会が増え、下田ってなんていいところなんだろう、ここで暮らせることってすごく贅沢なことなのかもしれないね、と、「下田で暮らすことの価値」に改めて気づいた人も多いのではないでしょうか。

徹花さんはどんな思いで下田の写真を撮っているのでしょう。東京での撮影と何か意識が違うことってあるのでしょうか。

津留崎家が毎年取り組んでいる米づくりの風景
山の恵みも豊富な下田。農家の友人家族が甘夏を収穫する風景

もともと食の生産現場に携わる人びとの生き方や仕事ぶりに興味があって、東京に住んでいた頃から時間を見つけてはおいしいものと、それをつくる人びとの暮らしを求めて地方を訪ね、土地の人と食文化を撮り続けていました。撮りためた写真でいつか写真展をやりたいなという気持ちはあったのですが、なかなかひとつの作品にはまとまらずにいました。やっぱり東京で会社勤めをしながら、各地の食文化や生産の現場を撮影するのは限界があった。

東京時代、娘とふたりで九州の天草《あまくさ》諸島を旅したことがあって、そのときに泊まった宿で出してもらったヒジキがものすごくおいしくて感動。聞けば地元の海士さんが目の前の海で採ってきたものと聞き、ヒジキ漁に同行させてもらいました。そのときの体験が自分にとってものすごく衝撃的で、初めて目の当たりにするヒジキ漁に大興奮しました。それからヒジキ熱が沸騰して(笑)、もっといろんな漁の現場を撮影したい!となって。特に、同性の女性で厳しい海の仕事と向き合う海女さんの世界をもっと知りたいと思って、各地の漁協に問い合わせたんですけど、漁は天候に左右されるから撮影できるかどうかは当日にならないとわからないと言われて。いま思えば当たり前のことなんですが、当時はそんな自然次第の仕事だということに思いが至らなかったんです。私は会社員でしたから、漁ができるタイミングまでその土地で待ちかまえることはできず、断念せざるを得ませんでした。

でも下田に移住して、それができるようになったんです! 
それは写真家である私にとって、ものすごく大きな変化でした。

下田は海と山が近くて、海のものと畑や森のもので生計を立てている人たちが多く暮らしています。食べ物の背景にある生産者や作り手さんと、その恵みをもたらす自然を撮りたい、もっと食の現場に近い暮らしがしたいと思っていた私にとって、下田は願ったり叶ったりの環境。いつなんどき撮りたい風景に出会えるかわからないので、毎日どこへ出かけるときもカメラは欠かさず持ち歩いています。

下田で暮らすようになって、被写体との距離が圧倒的に近くなりました。私が撮りたい人たち、農家さんや海人さんなど自然と対峙しながら食をつくる人たちが身近にいるんですもの。彼らと知り合い、おつきあいさせていただくなかで撮影できる喜びは、東京暮らしでは得られなかった感情ですね。

海に向かう海女さんを捉えた一枚。下田須崎区にて

■ここに住まなければ撮れなかった海人たちの姿

——徹花さんにとって初めての写真展『海と、人と』(2023年3月に東京で、10月に下田で開催)は、おもに須崎地区の海人さんの海とともに生きる姿をとらえた写真でした。下田に暮らし、彼らのもとへ通いつづけ、信頼関係を築き上げてきたからこそ撮れた一枚一枚。海士さんが海中でアワビやサザエを採っている写真、荒波がたつ岩場で海藻をとる海女さんの写真……。どれも狙って撮れる写真ではない一瞬ばかりで、いったいどれだけの時間をかけて撮影してきたのだろうと思ってしまいました。いつごろから漁をして生きる人びとの写真を撮るようになったのか、どんなところに惹かれているのでしょうか。

下田に住み始めた頃は、海人さんがこんなに身近にいるなんて知りませんでした。初めて撮影したのは、東京から友人が遊びに来たときに、須崎の「恵比須島」へ出かけたときのこと。駐車場の片隅に、がらんとした小屋があって、そのなかで何やら作業をしている女性たちがいたんです。何をしてるんだろう、とのぞいてみたら、みんな楽しそうにおしゃべりしながら赤紫色の海藻のようなものを手にしていました。それがところてんの材料の天草だということをそのとき初めて知って。ご年配の女性たちは海女さんで、自分たちが海で採ってきた天草を天日干しにしたあと、細かい砂や小石を取り除いたり選別しているのだと教えてもらいました。そんな貴重な場面に出会えたことが嬉しくて、みなさんの了解を得て、夢中でシャッターを切ったことをよく覚えています。

下田で海女さんを追いかけるきっかけとなった一枚。須崎区の天草小屋で作業する女性たち

海女さんの写真が撮りたいというのは、天草諸島での体験からずっとあったんですが、あのときは東京暮らしで断念していた。でも、下田に移住したおかげで、もう一度挑戦できるんだ!海とともに生きる人たちの暮らしを撮影したい!と、ワクワクしました。それで、海女さんたちが作業している小屋に通うようになったんです。

いまでもそうなんですが、海人さんたちにレンズを向けるのはとても緊張することです。地元の人間でもないのに、ずけずけ入っていってはいけないのではないか。大切な営みの邪魔になりやしないかという思いがあるからです。軽々しい気持ちではいけないと思う。最初の頃は、失礼があってはいけないとちょっと気負いすぎていたかもしませんが、でもつねに相手へのリスペクトの気持ちで接しています。

海の仕事は、危険ととなりあわせ。みなさん緊張感をもちながら海に入っているので、撮影されるのはいやじゃないかと心配だったんですが、通っているうちにだんだん距離が縮まって、そのうち「またきたの〜」と笑顔で迎え入れてもらえるようになりました。

さらに、私と同世代の海士さんたちと親しくなったのをきっかけに船にも乗せてもらえるように。漁が解禁になる初日のことを「口開け」というのですが、いつ口開けになるかは当日にならないとわからない。なにせ天候次第ですからね。でも、いつごろ口開けになるかを海士さんが教えてくれるので、「来週かな」「明日あたりかな」と聞いているから、こちらも準備ができます。海の中で撮影するために、水中カメラもウエットスーツも購入しました。連絡をもらったらすぐに出られるようにセットしておき、当日の朝、「口開けしたよ〜」と連絡があると、ウエットスーツを着込み、海まで車を走らせます。

漁ができる期間は、限られた数日のみ。このタイミングを逃すと来年まで待たなくてはならないから、とても貴重な機会なんです。近くに住んでいなければ出会うことのない海人さんたちの仕事。彼らの協力がなかったら立ち会えない、とても貴重な現場を撮影させてもらっています。

写真展のパンフレットに選んだ写真は、奇跡の一枚だと思っています。口開けした初日の写真なのですが、たまたま荒波が立っていて、冬の海は冷たく猛々しい。でも、海女さんたちは打ち寄せる波にひるむことなく入っていって、岩場についた海藻を懸命に摘んでいた。口開け初日は、手つかずの状態だから海藻がいちばん採れる日。だから海女さんたちの熱が違うんです。不慣れな私は何度も波をかぶりながら、足が滑りそうになりながら必死でシャッターを切りました。撮れた写真には、厳しい自然と、自然と対峙する勇ましくも美しい海女さんたちの姿が捉えられていて、思わず「よしっ!」とガッツポーズをとってしまったくらい嬉しかったです。

写真展のパンフレットより


——海人さんたちの協力と、徹花さんの粘り強い努力、そして自然とは何かを教えてくれる下田の海があったから撮れた『海と、人と』の作品たちだったのですね。東京の会場では料理家ワタナベマキさんと、下田の老舗「美松寿司」の植松隆二さんが、下田の海の幸をふんだんにつかった料理をふるまう会を企画。それに、徹花さんのご主人による下田米(津留崎家が丹精込めて育てたお米)の土鍋ごはんと地物おつまみ食堂も。

写真展にこうした食堂を併設したことについて徹花さんは、「つい食卓で出来上がった料理にばかり注目が集まりがちですが、その奥の世界、つまり生産者さんの存在があるということをこの企画で今一度意識して欲しかったのです」と語っています。

展示の準備には、下田からたくさんの助っ人がかけつけ、そのなかには写真の被写体となった海人さんたちの姿もあったとか。ふだん自分たちが仕事をしている姿を写真に撮られれる機会などほとんどない人たちだと思うのですが、彼らの反応はどうだったのでしょう。その後、10月に下田の東急ホテルで開催された同写真展には、東京には行けなかった海人さんやそのご家族など、たくさんの地元の人たちが来場されたそう。下田の人たちは、徹花さんの写真をどう受け止めたのでしょう。その感想や反応からは、写真にはある特別な力があることが見えてきました。それは、「写真がまちを元気にする」ということです。

次回、〈後半〉では、写真展を通じて見えてきた「写真の力」について、徹花さんと一緒に考えます。また、「海人さんの写真はまだまだ撮り足りない。これからもずっと撮り続けたいし、特に90歳近い高齢の海女さんたちは人生の先輩でもある。彼女たちから教わることはたくさんある」という彼女に、下田を舞台にこれからどんな作品づくりをしていきたいか、今後の創作活動についてもうかがいます。

どうぞお楽しみに。

徹花さんが東京での写真展を無事に終えたことを海女さんに報告するためにご自宅にうかがうと、玄関先に額縁に入れられた案内状が飾られていたそう。「毎日これを見ながら、今日もやってるな、頑張ってるかなと思っていたよ」と。海女さんたちと徹花さんの間には、あたたかな絆が生まれている。ますますこれからの作品づくりが楽しみになる素敵なエピソードでした。



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